府政報告活動

初心を貫きます。信念を貫きます

府政活動報告(7期28年を振り返って)

府議会議員となて 7期当選させていただき, 現在 28年目を務めております. この間, 後援会パンフレットには「初心を貫きます」、ホームページでは「信念を貫きます」をモットーに掲げてまいりました。それでは府議会員を目指した「初心」とは何だったのかを振り返り、残された課題は何かを考えていきたいと思います.

1期目の当選は昭和 62年ですが, 実は昭和 54年に高槻市議会議員選挙で当選し 1期務め, 昭和 58年の統一地方選で府議会議員選挙に立候補し落選しています. 「まだ早い。若すぎる。自民党から 2人は出せない。」 と言われ, 公認は得られず, 党籍証明のみの無所属での出馬でした. すぐ後の市議会選挙にはもどる気持ちはなく, 4年間浪人しました. 自民党の支部で反対され, 4年間浪人してまで府議会を目指した「初心とは」「信念とは」なんだったのかをこのホームページをご覧くださっている方々にも知っていただきたいと思います.

高槻六中問題(昔のことで現在の六中とは無関係です)

昭和 56年 4月に高槻市立第六中学校に赴任した校長は, それまで当時高槻市では慣例となっていた「職員会議が最高決議期間である」との組合との覚書に署名捺印することを拒み校長の権限を守ろうとしました. これに対し組合教員(当時の六中では 100%加入)は 4ヶ月間学籍簿の作成を行わず, その後 1年半にわあたり職員会議をボイコットするという暴挙に出て校長との対決姿勢で遺伝だのです.

組合が支配していたそれまでの六中ではどのような教育が行われていたのでしょうか ?

当然ながら保護者から教育正常化の訴えが噴出します. PTAの気管支でも保護者や卒業生の不満が一面に載っているという異常事態となっていたのです.

そこへ勇気ある校長の出現により, 保護者だけでなく地域住民(生徒の飛行により迷惑を書けられていたり, 子供が在学中に辛い思いをした人たち多数が強力), 卒業生が熱烈に教育正常化を訴えて立ち上がるに至ったのです.

このような日教組支配の教育が行われた背景

なぜこのような教育が可能だったのでしょうか ?

そもそも高槻市には 5つの中学校がありました. 旧高槻市中部から南部は 1中, 北部は 2中で, 昭和 30年代はじめの大合併により, 三箇牧地区の 3中, 富田地区の 4中, 樫田地区の 5中も高槻市立の中学校となったのです.

その頃から人口の増加, 児童・生徒の増加が始まりました. 昭和 38年に合併ご初めての中学校が新設されました. それが 6中なのです. 5中までの校長先生は戦前の師範学校出の先生方で日教組の先生方も頭を押さえつけられた格好で自由化ってなことは許されませんでした. ところが 6注ができて日教組の活動家がこぞって希望を出し, 全国で例が無いような上記のようなことを始めたのです. 爆発的な人口の増加が始まったのもこの頃です. 教員数が圧倒的に足りなくなり田舎に就職が決まっている学生でも, 大阪の方が給料が高いし, 受験すれば必ず通るといって教員をかき集めだしたのもこの頃です. 60年安保, 70年安保の闘士と言われた人も紛れ込みました. 日本赤軍の重信房子が潜伏したのも高槻市だったのもこのあたりに理由があったと言われています.

6中で行われていたことが高槻の標準となり, 公立高校受験の地元集中方式は「高槻方式」と呼ばれ NHKも 1時間番組で「日本で一番日教組の強い町」として紹介されるようになっていました.

大阪府から変えなければ抜本的解決に至らない

驚いたことに市の教育委員会も PTA協議会も地元を巻き込み政治活動にまで発展させたことに逆に 6中の「教育正常化」を諌める見解を打ち出しました.当時の自民党府議段を通して府教育委員会に要求を重ね、ついには参議院予算委員会, 文教委員会に取り上げられ, 校長も含め過半数の教員の人事異動がなされ高槻市の教職員組合も敗北を認めるに至りました

府議会議員を目指す

教育正常化へ一石を投じたもののまだワンステップを踏み出したばかりで, 教師の良識回復までいたらなければ後戻り, 元の木阿弥になってしまうことを恐れました.

この時に府議会議員になり教育正常化に全力することに決心したのです.

これが私の初心であり貫き通すべき信念だったのです.

吉田利幸の原点・『教育問題』 吉田利幸がまだ高槻市議会議員であった昭和56年4月に高槻市立第六中学校に赴任した校長は、それまで当時高槻市では慣例となっていた 『職員会議が最高決議機関である』との組合との覚書に署名捺印することを拒み校長の権限を守ろうと しました。これに対し組合教員(当時の六中では100パーセント加入)は 4ヶ月間学籍簿の作成を 行わず、その後1年半に渡り職員会議をボイコットするという暴挙に出て校長との対決姿勢で臨んだのです。

こうしたことが可能だった日教組支配の教育が行われていたからでした。この六中に端を発した公立高校受験の地元集中方式は『高槻方式』と呼ばれ NHKも一時間番組で 「日本で一番に日教祖の強い町」として紹介するようになっていました。

これに対し、子供を人質に取られた形の弱い立場の保護者からも教育正常化の訴えが噴出します。勇気ある校長の出現により保護者だけでなく 子供が在学中に辛い思いをした人たち多数地域住民が協力し、卒業生が熱烈に教 育正常化を訴えて立ち上がるに至ったのです。

しかし、当時の市の教育委員会(現在は吉田府議の働きにより是正されています)もPTA協議会も地元住民を巻き込み政治活動にまで 発展させたことに対して 逆に六中の「教育正常化」を目指した人たちを諌める見解を打ち出しました。市会議員であった吉田利幸は当時の自民党府議団を通して 府教育委員会に要求を重ね、ついには参議院予算委員会、文教委員会に取り上げられ、 校長も含め過半数の教員の人事異動がなされ、教職員組合もついには敗北を認めるに至りました。

〇 府議会議員を目指す。

教育正常化へ一石を投じたもののまだワンステップを踏み出したばかりで、教育に関してはまだまだ課題が山積していました。 多くの教員が教師の良識回復まで いたらなければ元の木阿弥になってしまうことを恐れました。 この時に府議会議員になり教育正常化に全力投球することに決心したのです。 これが吉田利幸の初心であり貫き通すべき信念だったのです。

平成 26年 10月 29日 大阪府議会で「国会における憲法改正議論の推進を求める意見書」可決

10月 28日(火) 午前 1時 30分ごろに大阪府議会本会議で「国会における憲法改正議論の推進を求める意見書」が 可決されました.

実は昨年末から日本会議大阪北摂支部の役員である弟たちから 25年度 2月議会, 26年度 5月議会で 自民党から提案して貰えないかと矢のように催促されていました. 弟たちには, 「自民党が提案するには 大きな壁が二つある. 一つは「意見書は全会一致方式」ともう一つは「大阪維新の会」だ.」と言い聞かせて きました. 少数派の自民党が提案すればおそらく議会運営委員会を通過させられないことと「大阪維新の会」の 出方が掴めなかったのです. 平成 23年の国旗・国歌問題の時のように自民党が提案したことに対し, 「うちほうが上だ」という別の提案をされたら, 今は維新の会も過半数を割っているので両方が潰れて しまう可能性を否定しきれなかったからです.

弟たちと相談の上決めたのは, 「少数派である自民党が提案すれば元号法制化の要求決議後, 全会一致方式を 貫いてきた大阪府議会では議会運営委員会を通過させられない. 維新の会が提案したら賛成して通す」という 作戦でした. そして, 「大阪維新の会」が 9月議会でも次の 2月議会でも提案しなければ, 我慢して統一地方選挙後の来年度 5月議会で自民党案を提出しようと考えていました.

それだけに今回維新の会から提案してくれた決断には大いに敬意を表し感謝しております.

思い返されるのは, 元号法制化の時に, 全国 1700市町村, 42県議会で決議案が挙がっていたにも かかわらず, 政府与党は, 「東京都, 大阪府, 京都府, 福岡県の大都市圏がひとつも上がっていない」と いうことで動かなかった時に, 共産党府政の大阪で議決され, それが京都府, 東京都, 福岡県と 連鎖的に決議され, ついに元号の法制化が実現したことです.

団塊の世代, 70年代安保世代の私には, 歴史の転機点に働きかけ, 立ち会ったと実感できる 出来事の一つが「元号法の制定」でした. それ以前は「昭和天皇のご在位五十年の奉祝行事」があり, 平成に入っては第一次安倍内閣の時の「新教育基本法の制定」がありました.

しかし, それらは憲法改正への序章であったようにも思われます. 元号法制化の時と同じように, 大阪府の意見書が突破口となり憲法改正も実現されることを説に祈っております.

府政活動報告(7期28年を振り返って)

初心を貫きます。信念を貫きます

府議会議員となって7期当選させたいただき、現在28年目を努めております。 この間、後援会のパンフレットには『初心を貫きます』、ホームページでは『信念を貫きます』を モットーとして掲げてまいりました。それでは府会議員を目指した『初心』とは何だったのかを振り返り、 残された課題は何かを考えてみたいと思います。

1期目の当選は昭和62年ですが、実は昭和54年に高槻市議会議員選挙で当選し1期努め、 昭和58年の統一地方選で府議会議員選挙に立候補し落選しています。 『まだ早い。若すぎる。自民党から2人は出せない。』と言われ、公認は得られず、 党籍証明のみの出馬でした。すぐ後の市議会の選挙にはもどる気持ちはなく、 4年間浪人しました。自民党の支部で反対され、4年間浪人してまで府議会を目指した『初心とは』 『信念をは』なんだったのかをこのホームページをご覧下さっている方々にも知っていただきたいと 思います。

〇高槻六中問題

昭和56年4月に高槻市立第六中学校に赴任した校長は、それまで当時高槻市では慣例となっていた 『職員会議が最高決議機関である』との組合との覚書に署名捺印することを拒み校長の権限を守ろうと しました。これに対し組合教員(当時の六中では100パーセント加入)は4ヶ月間学籍簿の作成を 行わず、その後1年半に渡り職員会議をボイコットするという暴挙に出て校長との対決姿勢で臨んだの です。

組合が支配していたそれまでの六中ではどのような教育が行われていたのでしょうか?


このコーナーでは、府民の皆様へ、随時、府政活動の報告を行っていきます。
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